Youth man and the Sea

写真、フィルム、デジタル、音楽、それらの戯言

記憶の暗室から思い出が現像されていく。

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昼間から飲む。

 

グラスは初夏の暑さで汗を書いていた。

彼女とメニューを端からみて、お互いの意見を述べる。

 

向こうには、常連さんが遅めの昼ごはんを食べていた。

それを見てると、やけにお腹がすく。

 

美味しいものを食べるのはほんとに幸せなことだ。

その幸せに、少しだけアルコールを足して、味わい深いものにする。

 

カメラは、事実しか述べないので、ために苦しくなる。

幸せな時は覚えておきたい場面が、多すぎて、シャッターの数が加速的に増えて行く。

楽しむことが最優先なのに、覚えておくことがそれを追い抜かす時がある。

 

そんなときに、アルコールがあると素晴らしい。

あまり、シャッターは切らずに、記憶も緩やかになる。

「まぁ、いいかー」となって、どんどん時間に身を任すようになる。

数日も経てば、その日は幸福であったことは覚えているが、

何が幸福だったのかのディテールは分からない。

 

そんなときに現像上がりの写真を見る、そうすると記憶がありありと蘇るのだ。

「あぁ、バイスが三杯までで、彼女と三杯も飲めるか話し合ったんだ」

「そして、帰り道に彼女と真っ赤な顔でケーキ屋さんに入り、路上でケーキにぱくついたんだ」

 

写真はたくさんはいらない、ほんの一瞬、 日常の最も幸福な時を写してくれれば良い。

そうして、記憶の暗室から思い出が現像されていく。

オダヤカサ、

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日々よ、穏やかであれ。

春の風や、夏の海や、秋の月や、冬の夜の、ように。

 

唇に優しい言葉を含み。

目に綺麗な笑顔を映し。

鼻に柔らかな香りをたたえ。

耳に和やかな歌を聴き。

 

日々よ、穏やかであれ。

そう願い、俺は、誰かの日常を間借りしながら、進んで行く。

さぁ、今日も、美味しいものを食べよう。

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美味しいものを食べよう。

嫌なことがあった日に。例えば、雨の日に。

良いことがあった日に。例えば、晴れの日に。

 

賢しくなればなるほど、自分が動物だって忘れる。

まるで、システマティックで、すごく高機能な何かと思ってしまう。

 

でも、実はそんなことなくて、ただの生き物なんだ。

長ったらしい文章もかけるし、スマートフォンで海外ドラマを見れる。

レイトショーで映画を観に行くぐらい、うまく時間を使うし。

わからない事は全部調べて、わかって気になると安心して、また、忘れる。

多くの時間を生き物っぽくないように生きてるから、忘れがちだけど。

 

やはり、俺は、ただの生き物なのだ。

 

美味しいものを食べると安心する。

ほっとする。心の奥底がじわっと暖かくなるんだ。

そりゃ、そうだ。空腹は死の赤ちゃんだから。

そんな自分を見ると、生き物であるということが、わかり、さらに安心をする。

 

だから、俺は美味しいものを良く食べるようにしてる。

極力、季節のものを選びつつ、作り手の顔が見えるような小さな店で、

そこにしかなくて、それでいて美味しいものを食べる。

 

綺麗な油に、小ぶりなコロッケたちが泳ぎ立つ様を観てるだけで幸福を感じる。

紙につつまれて、その紙ごしに温度が伝わり、衣のサクサクさを指先で味合う。

口に運び、「暑いから気をつけろ」と、「暑いうちに食べろ」が、大喧嘩する。

齧ると、熱気が口の中にひろがり、肉汁の旨味と芋の甘みが押し寄せる。

思わず、にこやかになる。

 

口の中が火傷しきったころ、胸が暖かくなり、笑顔が溢れる。

そして思う、やはり、俺は、ただの生き物なのだ。

 

さぁ、今日も、美味しいものを食べよう。

野次馬の語源が気になり、調べてみたところ。

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野次馬の語源が気になり、調べてみたところ。

 

親父馬が語源となっていた。

なるほど、面白い。

老いた馬は仕事をすることが出来ないので、眺めるしかないのである。

 

カメラを持った俺は、完全に野次馬である。

キョロキョロしながら歩く。

自分の心が騒ぐものがないかを必死に探す。

世界を見る目が少し厳しくなる。

普段は流していた景色も、価値があるのかを考え出す。

つまり、もう一度世界を精査するのである。

そして、その中から素晴らしいものを探す。

 

見つけるとおもむろに、カメラを構えファインダーを覗く。

「世界、お前は素晴らしいぞ」と褒め称えるかわりに、

あのシャッター音を鳴らし、この世界に賞賛を送る。

 

ただ、少し悲しいな、と思う。

カメラを持つ以上、絶対に当事者にはなれないのである。

観客は、プロセニアム・アーチは踏み越えれない。

俺は、その出来事に仕える事が出来ないために、見る事しかなせない。

なんと、懦弱な存在だろうか。

素晴らしい世界に属する事は出来ず、素晴らしい世界を眺めることしか出来ないのだ。

 

野次馬と化したカメラを持つ人間は、どこか悲しい、生き物だ。

それでも、また週末はカメラを持ち、この世界を見にいくんだろうな。

餃子の死体

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死は近い。

わずか、1m下にあるだけで価値がかわる。

皿か地面か、それだけで価値がかわる。

 

大行列にならび、数時間かけ、手に入れたものでも、わずか一瞬にこうなる。

不思議だ。

死んだ餃子をじっと見て、シャッターを切った。

 

帰り道に、この餃子の死体をふと思いだして、誰かに踏まれる前に食べれば良かったのではと思った。

その後に、なんて卑しいんだと自責し、さらに落ち込んだ。