野次馬の語源が気になり、調べてみたところ。
野次馬の語源が気になり、調べてみたところ。
親父馬が語源となっていた。
なるほど、面白い。
年老いた馬は仕事をすることが出来ないので、眺めるしかないのである。
カメラを持った俺は、完全に野次馬である。
キョロキョロしながら歩く。
自分の心が騒ぐものがないかを必死に探す。
世界を見る目が少し厳しくなる。
普段は流していた景色も、価値があるのかを考え出す。
つまり、もう一度世界を精査するのである。
そして、その中から素晴らしいものを探す。
見つけるとおもむろに、カメラを構えファインダーを覗く。
「世界、お前は素晴らしいぞ」と褒め称えるかわりに、
あのシャッター音を鳴らし、この世界に賞賛を送る。
ただ、少し悲しいな、と思う。
カメラを持つ以上、絶対に当事者にはなれないのである。
観客は、プロセニアム・アーチは踏み越えれない。
俺は、その出来事に仕える事が出来ないために、見る事しかなせない。
なんと、懦弱な存在だろうか。
素晴らしい世界に属する事は出来ず、素晴らしい世界を眺めることしか出来ないのだ。
野次馬と化したカメラを持つ人間は、どこか悲しい、生き物だ。
それでも、また週末はカメラを持ち、この世界を見にいくんだろうな。