野次馬の語源が気になり、調べてみたところ。
野次馬の語源が気になり、調べてみたところ。
親父馬が語源となっていた。
なるほど、面白い。
年老いた馬は仕事をすることが出来ないので、眺めるしかないのである。
カメラを持った俺は、完全に野次馬である。
キョロキョロしながら歩く。
自分の心が騒ぐものがないかを必死に探す。
世界を見る目が少し厳しくなる。
普段は流していた景色も、価値があるのかを考え出す。
つまり、もう一度世界を精査するのである。
そして、その中から素晴らしいものを探す。
見つけるとおもむろに、カメラを構えファインダーを覗く。
「世界、お前は素晴らしいぞ」と褒め称えるかわりに、
あのシャッター音を鳴らし、この世界に賞賛を送る。
ただ、少し悲しいな、と思う。
カメラを持つ以上、絶対に当事者にはなれないのである。
観客は、プロセニアム・アーチは踏み越えれない。
俺は、その出来事に仕える事が出来ないために、見る事しかなせない。
なんと、懦弱な存在だろうか。
素晴らしい世界に属する事は出来ず、素晴らしい世界を眺めることしか出来ないのだ。
野次馬と化したカメラを持つ人間は、どこか悲しい、生き物だ。
それでも、また週末はカメラを持ち、この世界を見にいくんだろうな。
餃子の死体
死は近い。
わずか、1m下にあるだけで価値がかわる。
皿か地面か、それだけで価値がかわる。
大行列にならび、数時間かけ、手に入れたものでも、わずか一瞬にこうなる。
不思議だ。
死んだ餃子をじっと見て、シャッターを切った。
帰り道に、この餃子の死体をふと思いだして、誰かに踏まれる前に食べれば良かったのではと思った。
その後に、なんて卑しいんだと自責し、さらに落ち込んだ。
俺の日常は祝福されている。
俺の日常は祝福されている。
多くの不幸や悲しみを、呪い殺して、俺はここまで来た。
もし、俺の祝福を邪魔するものがいるのであれば、
さらに大きな、祝福を持って、俺は俺自身を幸せに導いてく。
つまり、今日も美味しい晩御飯を、彼女と二人で狭いキッチンで作るということだ。
冷たい微熱をひきつれ、くたびれた夜を歩きつつ、思うこと。
俺は薄情な人間だ。
もう面倒くさいものには首を突っ込まない。
1人で生きてくには長すぎるが、誰かに構うには短すぎる。
夏の夜に集る紙魚。
涼しい風が頬を撫でる。
まるで少女のうなじのように、純白な風だ。
初夏はいつでも、新鮮であり、肉体と精神を若くしてくれる。
少年の額ような太陽に、初恋の恋文のような若々しい木々の葉。
ファインダーを覗き、さらにメガネを挟み、そして銀塩に焼き付ける。
そうでもしないと、俺は「若さ」を直視出来ないほど、年老いたのだ。
若さに、畏怖を感じる時がある。
河原で何をするわけでもなく、夜を待つカップル。
愛の永続性を、頭ではなく心で信じてる二人。
それを覗くと、老婆心ながら不安になる。
人生は有限である。
眠りは死の従兄弟であり、沈黙は死の息子だ。
夜を待つのではなく、迎えにいく。
そして、多くの人と、多くを語らう。
夏の夜は息が長く、まるでバードマンのカメラワークのように、切れ間なく続く。
白いヘインズが汗を吸い、草臥れるまで遠回りをして進もう。
季節によって、言葉は紡がれる。
季節によって、言葉は紡がれる。
前方に太陽があるときに、影は視界に入らない。
まるで、日常が輝きますと死が姿をひそめるように。
ただ、確実に、足元に死はまとわりついている。
夜の底に、トイレにいく。
戻ってきてみると、彼女の毛布が剥がれていた。
可哀想だったので、彼女に毛布をかけ抱き寄せた。
すると、俺の胸に2度顔をこすりつけ、彼女はまた寝た。
季節によって、言葉は紡がれる。
悠久ほど、泡沫に。
甘い日々は、飛び魚のように、時間の海原をすべり、視界から消えていく。
永遠に続いて欲しい日ほど、一瞬に過ぎ去るんだから、人生はケチな野郎だ。